自分の細部、過去にも今にもとっ散らかった自分を回収すること
から始まり、先月は全体像を捉えた感じだった。
娘、長女、NYの日本人、母、妻、パート主婦、ハワイの日本人、、、
たくさんの役割をその時、その時徹してきて自分を馴染ませてきた。
NYから日本に一時帰国した時に、母から
『あなたはカメレオンのよう。顔もすぐ変わる』
って言われたことがあった。
まさに、カメレオンのように。その空気、その状況、その文化、役割に
瞬時に適応して七変化してきたんだ。
その細部の確認が終盤になり、全体としての自分が見えてきた。
それは、無意識にずっとやってきたことだけど、
【俯瞰して全体をみている自分】だ。
・大学の大教室の講義では、必ず2階席の中央に座った。
・旦那の教会のミサに共に行っていた時は、一番うしろの映像と音声の
テクニカルチームが座る椅子に座って、常に信者を観察していた(笑
常に1歩どころか、5歩くらい下がったところで全体を見ていることが居心地の良さ
だったから、パーティにいくのが苦手で、ホームパーティをホストするのが常だった。
Zoomでオンライン上のミーティングが盛んになると、何十人の中のひとりであることが
最初はすごくストレスだった。
ハワイの家族もそう。英語が母国語じゃないし、、と思って家族イベントでも
全体を観察している者、であることで自分の世界を守ってきた。
全部を感じ、見て、情報が入り込みすぎる者にとっての
境界線の引き方、自分の守り方だった。
境界線はひけてきたのに、この感情はなんだろう。
見てしまったが故、知ってしまったが故、感じてしまったが故の
【見捨ててはいけない】だった。
最初は動物に現れた。
近所で引っ越す家があると、飼い犬は連れて引っ越すのに
猫が置いていかれた。そうして4年前、3軒横の生まれたての子猫を4匹
引き取らざる得なくなり、1匹は貰い手を見つけ、1匹は身体が弱く死に、
2匹がうちの猫となった。
そして先月、2軒先の家族が引っ越した時、また同じ状況が現実に現れた。
猫が置いていかれ、お腹をすかしてうちにやってくるのだ。
ちょうど夏、息子と映画館で【ナウシカ】を観たところだったから
ナウシカが『これ以上誰も死なせたくない!』みたいに言ったセリフが
頭にこびりついていて、気持ちがぐらぐら揺らいだ。
【見ているのに助けないのは〇〇なんじゃないか。】
〇〇に入る言葉は、10人10通りなのだと思う。
みんな〇〇に発生する感情は違う。
だから、義母の癌治療の様子を、常に見ているが私はしんどかったが
旦那は、良くなってきている、って言っていた。
見ている、感じていることのキャパがオーバーすると
その振り幅が触れるのは、被害者意識だった。
自己を犠牲にしてきた者の悲しみ、哀しみ、悔しさ、耐えられない心の重さ
これ以上は抱えきれないんだよ、なぜ私がこれほど苦しむのだろう。と。
ほろほろ涙を流し、全部をシャットダウンした。
誰も責任とれ、なんて言ってないのにね。
あなたのせいだ、なんて面と向かって言われてないのにね。
勝手に責任背負って、見捨ててはならない。と思っていた。
今でも思ってるよ。無意識に感じてる。
自分の自由を、自分の解放を、自分が自分の人生を生きるのに
削ぎ落としていくことを見捨てることに直!変換してしまう自分の脳内コンピューター
はあるにはあるのだけど、このパターンが登場した時に
すぐ気づけるようになったことが今の大きなステップ。
その感情が【ある】ことをただ感じる。
宿命をみてしまう立ち位置にはいるけれど
運命を切り開いていくのは、その猫、その人、それぞれの生き様なのだ。
罪悪感にする必要はないんだよ。
女性性をフル活動して生きてきた人にとって
”自分のために生きる”とは、とても勇気のいることだよね。
男性性の社会で、男性性剥き出しで頑張ってきてまだ走り続けてる人を
”自分さえよければいい” 人と映るんだ、ってことを内観フレンドが
メンションしてくれて、ハーーーーとなったよ。
【自分のために生きる】と【自分さえよければいい生き方】
面白いね。
自分の中の女性性と男性性の比率が分かる気がするね。
これはまた感じてみよう。
今はここまで。
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